私たちの「こだわり」

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ウェルスハシモト
代表の橋本広幸です。

私たちの「こだわり」は第一に【施主様のより良い身体の健康】です。

元々は「私自身のこだわり」でしたが、現在相談役の父や、従業員の沼澤も今では同じような志を持って一緒にやってくれています。

そもそも何故、私は施主様の「健康」にこだわっているのか?
それは私自身のこれまでの人生経験が大きく関わっています。少々お付き合い頂けたら幸いです。

家業を受け継ぐことへの反発心

私は父が経営する建具店の長男として生まれました。
自宅の隣に車庫兼塗装仕事をする小屋があり、私は物心ついたときにはその隣の小屋に
行き、両親が仕事をするのを眺めていました。

父親の仕事柄、家には大工や棟梁が常に出入りします。
幼少の頃から、彼らに「広幸、お前は将来何になるんだ?」と質問され、私は反射的に「建具屋するよ」と答えていましたが、半ば強制的に答えさせられるような感覚があったことを覚えています。

父には、私を県内の工業高校で建築科のあるところに受験させたい希望があったようです。

しかし、2代目として家業を受け継ぐことへの反発心を持っていた私はその傾向を敏感に察知していました。それは体の症状としても表れていて、青焼きと言われる当時の図面を見ると、何故か吐き気を感じるような精神的ストレスを感じていました。

一方で父たちの仕事の手伝いをしたり、現場に行ってごみの片付けをしたり、関東の現場まで一緒に行ったことは良い思い出として残っています。

この当時、新築の現場は私にとってとても良い遊び場でした。新しい家、新しい場、そこにいると何かそれだけで嬉しい氣分が上がるような、なんとも表現しづらいですが、心地よい場所でもありました。今思えば、とても変わった子供だったと思います。

高校受験の際には、学校の先生からうまくいけば大学にいけるんじゃないか?
と進学校に行くことを薦められました。これは、私にとってはまさに青天の霹靂でした。

「稼業を継ぐのは自分しかいない」と思っていたのに、他の人生の選択肢が目の前に表れたからです。この恩師の言葉に私は自分の可能性を感じ、進学の道へと邁進することになりました。

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高校入学~就職まで

進学校への入学を果たした私は、3年間野球部での生活を送ることになります。

実家から距離が遠い山形市内への越境入学のため、下宿しての高校生活。3年間まさに野球漬けといった生活でした。ちなみに、偶然にも同期に私と同じ同姓同名の「ハシモトヒロユキ」がもう一人いました。

3年生の時には同期のエースピッチャーが野球雑誌の「Number」やスポニチに取材を受けるなど、県立高校ナンバーワンとの呼び声もある学校でしたが、1番ハシモトヒロユキ、2番ハシモトヒロユキ(こちらが私)と試合の時のアナウンスには場内がドッと沸いていました。^^

私は野球部の副部長でした。
夏の甲子園予選前には早稲田大学野球部からコーチングを受けさせていただくなど、当時の私たちは破格の待遇を受けさせていただきました。
また、エースピッチャーがドラフト候補生だったこともあり、私たちの士氣はかなり高かったのです。

そして迎えた、夏の高校野球山形県大会1回戦。私たちは順当に点を重ね、コールド勝ちまで残り2アウトまできていました。ところがです・・・監督が2枚看板ピッチャーの調子よさを温存しようとしたのか、急に投手を交代しました。

私たち選手にとっては、なぜこの場面で変えるのか?と不可解ではありました。二番手ピッチャーは2年生。とても優秀なピッチャーで私たちも頼りにしていましたが、3連続の4ボール。

雰囲気に飲まれる・・・という言葉がまさにぴったりの状況で、それまで経験したことのないような緊張感をメンバーひとりひとりが感じていました。

次のバッターがライト方向にファールボールを打ちあげました。

もうひとりの「ハシモトヒロユキ」はライト。なんとかこの状況を打開しようと懸命にボールを追いかけましたが、そのままフェンスに激突してしまいます。

場内は一瞬にして悲鳴と焦りに包まれました。救急車が呼ばれ、もう一人のハシモトヒロユキが担架で運ばれていきます。その先は自分でもあまり記憶がありません・・

こうして3年間の野球漬け生活は1回戦敗退というとても悔しい結果に終わりました。

その後、私は1浪してなんとか横浜の大学に入学します。

大学でも野球部に所属し、横浜大学リーグで少しセカンドとして試合にも出してもらいました。2年間野球部に所属し、その後はアルバイトにも精を出し、家庭教師や塾講師、音楽著作権協会、はたまた当時流行ったカラオケパブなどなど様々な経験をさせてもらいました。
就職活動も一生懸命にやりましたが、やはり稼業を継ぐことが頭の片隅にありました。

しかし、当時の私は商社など世界を飛び回る職業に魅力を感じており、稼業を継ぐことはなく、宝石バイヤーの会社から内定を頂きました。

ただ・・・人生とは不思議なものです。

宝石の道へ進もうと思っていたのに、山手線の車窓から見えた「INAX」という看板に私はなぜか魅せられました。

当時の私は、この会社が何をやっているのかも分かりません。ですが、どうしても気になったので、飛び込みでその看板の会社に訪問しました。
それからOB訪問などで色々と調べ、このINAXという企業が「伊奈製陶」から「INAX」に社名を変えてマーケットに対して企業イメージを変容させた代表的な成功企業であることがわかりました。

そして、私は父にも相談しながら、結局この1部上場企業に就職します。

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就職~Uターン

INAXで、私は東京か大阪での勤務を希望していました。
男たるもの、大きなマーケットで自分の力を試したいと思ったからです。ところが赴任地は仙台。仕事が始まっても社会はそんな甘いものではなく、鼻をくじかれることの連続でした。荒波に揉まれながらも、私は代理店さまを中心とした営業を重ねていきます。

社会人2年目のときには結婚し、1人目の子供(男の子)が生まれました。そして2年後には女の子も生まれます。

この頃になると社内外からの評価も頂きながら代理店さま3~4社の予算管理をさせて頂き、売上予算的には仙台営業所内では1番の数字を任せられるようになりました。

当時所属していた事業部は社内で1番の評価を頂くくらいの堅調さだった一方、私は代理店様や工事店様への営業活動だけではなく、最終ユーザーである施主様の満足を頂くには?と、そんな気持ちも抱えていました。 ちょうど同じタイミングで、稼業の後継ぎの話がいよいよ逃げられない問題となります。

家業であれば最終ユーザーともしっかり関わることができる。そう考えた私は、サラリーマン生活を終えることを決断します。29歳のときのことでした。

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後継ぎ~

今となっては隠すことなくお話しできますが、サラリーマン生活を終えて稼業を継ぐのは全くスムーズではありませんでした。

環境が全く変わること、仙台から山形の田舎に戻るということは想像以上に生活が大きく変わります。
妻は私を頼るしかなかったのですが、私は未熟者でどちらかというと亭主関白派で、自分の決断を応援するのが妻として当たり前という姿勢でした。それが妻には大きな負担だったと思います。

父の創業した「橋本建具店」は、地元のお客様から、ある程度のお客様からの信頼を得ていました。そのため、元からある事業をステップアップできるので、これは大変ありがたいことでした。

しかしながら、大企業では自分が外に出て営業すれば、業務スタッフや関連部署の仲間がいろいろサポートしてくれます。でも、小さな会社はなんでもかんでも自分がやらないと回していくことができません。この環境が、想像以上に私を追い詰めていきました。

この「シキタリ」を変えるには、自ら背中を見せて動いていく必要がある。その一方で、両親や社員との軋轢も生まれ、私は体だけでなく、心理的にも悲鳴を上げだします。

自分はともかく、家族や子供たちは幸せにしたい・・・
それをずっと追求していたはずが、何か歯車がうまく回っていないような感覚をずっと感じながら仕事をしていました。

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人生最大のピンチ

そして、人生最大のピンチが訪れます。「離婚」です。

私は仕事に追われ、一番大切な人と話す時間を持てていませんでした。これは、妻にとって本当にストレスだったと思います。結果「離婚」という形になってしまいました。

今になって思えば、私はアルバイト時代の経験や、INAXでの営業成績時代に少なからず好意的な評価を頂くことが多かったこともあり、自分に変な自信を持っていたのだと思います。
しかし、実際にはそうではなかった。

そこに直面したことで、私は自身の人間性を根本から見直さざるを得ない状況となり、
暗中模索の状態となってしまいます。

そして、34歳の時に、そんな心の状態が自分の身体にも表れてきました。

ストレスに苛まれ、体重も増加し、ある時体中に発疹がでたのです。最初はポツポツでしたが、そのうち体中にでてきて、自分でも鏡を見るたびに「恐怖」を感じるほどとなりました。

やむなく病院に行くと「痒疹(ようしん)」と診断されました。先生からは「これはステロイドを塗りながら一生付き合っていく必要がある」と宣告されます。

ですが、私は諦めきれず、治す方法を探して試行錯誤を繰り返しました。
鍼をはじめ様々な療法を取り入れ、様々なお医者のところにも行きました。ですが、なかなか快方へは向かいません。

ここまで来ると、私は「心と体が健康」であることが大切なのではないか?と感じるようになりました。

そして、自分の暮らしの全てを見直します。

心身に負荷の少ない食生活、運動の実践からはじめて口にするもの、肌に使うものは自分にある自然素材のものを選ぶこと…。

睡眠環境を変え、心理学も学び、物事の捉え方も変えるようにしました。

そんな取り組みの中で、最も効果があったのが「住環境を変える」ということでした。

①お風呂の時間を十分汗をかけるように工夫したこと。
②食事の内容を工夫したこと。
③睡眠環境を調えたこと。

最近では、厚生労働省や国土交通省が連携して「住まいの環境整備」と「健康」の重要性を
我々事業者や施主様へ積極的に発信するようになっていますが、私は自分の経験から、これらの重要性を肌で感じていました。

当時は今も私のバイブルとなっている「ココロとカラダが喜ぶ住まいをつくる」 創樹社という出版元から出された本を実施していたのですが、薬を使ったわけでもないのに、あれだけ酷かった痒疹が少しずつ収まり、心身の不調も改善していったのです。

このことが、後に私が暮らしの好循環をもたらすリフォームを行うきっかけとなりました。

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現在のウェルスハシモトのこだわり

心身ともに元氣になった私は、自分が体験した「住環境の変化で暮らしが良くなる」ことを世に伝えるため「調うリフォーム」を実施しています。

たとえば
ビニールクロスなどの天井や壁材の内装仕上げ材を使用せず、室内の調湿性の優れた自然由来の建材を使うことで日中の生活や睡眠時も視覚や聴覚、嗅覚など「5感のストレス」を軽減する。

現在の食事では遺伝子組み換え食品などを全く口にしないこと、また石鹸やシャンプーなどの製品も100%オーガニック製品にすることなどは困難。そのため、お風呂場で「ミストサウナ」を活用することで、楽しみながら多量の発汗作用を促し「毒素の排泄(デトックス)」や「美と健康」を保つ。

さらに「間接照明」や「遮音性」「臭いなどへの配慮」の効果を利用することによって、感覚的に「快適だ」と感じられる空間をつくります。このリフォームはお客様からも「落ち着いて過ごせる空間になった」「リラックスできるようになった」「お客様が居心地良すぎてずっといたいと言ってくれる」などなどとても好評です。

このように、私は自らも経験もあり、リフォームがもたらす変化は「暮らしの好循環」の始まりだと感じています。

ちなみに、妻とは子供たちのお陰で離婚後も定期的に連絡をとり、少しずつ関係も良くなってきました。私にとって離婚は人生最大のピンチでしたが、自分自身としっかり向き合い、目の前の人の話をできるだけ聴くように努めるよいきっかけになったと思います。

私たちウェルスハシモトは常にお客様の暮らしの未来に目を向けて、「心と体が調う」そんなリフォームを提供してまいります。
さらにいうなら、私たちのリフォームという事業の最終目的は、
リフォームというサービスを提供したいのではなく、
リフォームというきっかけを通して、
施主様ご家族が暮らしの中で「いい氣分」という瞬間を1つでも多く味わっていただくこと
それが私たちのミッションと考えます。

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